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【ワシントン 日本小史】
「初の公式遣米使節団」
2世紀に及ぶ鎖国が終った1860年(万延元年)5月14日、徳川幕府最初の公式遣米使節団(正使・新見正輿)一行は、米国首都ワシントン特別区アナコスチア川添いにある米海軍工廠(Navy Yard)に到着した。近世日本が世界に乗り出す第一歩であった。
1853年、米海軍東インド艦隊司令官のマシュー・ガルブレイス・ペリー提督が江戸湾浦賀沖に出現、日本開国を求められ、日本中がひっくり返るT黒船事件Uに発展した。ペリー来航後、日米和親条約、日米修好通商条約が結ばれた。その条約批准書を米国政府と交換するため、初の遣米使節団のアメリカ訪問となったわけだ。
徳川幕府は1854年(安政元年)、日米和親条約を締結、下田、函館開港を認め、ここに200余年に渡る鎖国が終焉した。次で1858年(安政5年)日米修好通商条約、所謂安政5ヵ国条約(米、英、露、蘭、仏)を締結したが、同条約により、@治外法権認知A関税国主権放棄という高価な代償を支払わせられることになった。
1860年(元延元年)幕府は最初の公式遣外使節団をアメリカに送り、日米修好通商条約の批准交換をホワイトハウスで行った。ペリー提督の2回の黒船来航という威圧的開国要求とはうって代わって、ブキャナン大統領(1857ー1861在任)らアメリカ側は、日本からの遣米使節団を大歓迎した。1860年5月14日、駐米大使館第一陣となった一行が、ワシントン・ネービーヤードに到着した。
この遣米使節団は81人。この中で注目されたのは、「崩れるたいか(大きな建物)(徳川幕府)」の支えとなった小栗上野介と勝海舟の二人であった。小栗上野介(1827ー1868)は幕臣。外国奉行、軍艦奉行などを歴任。井伊大老に抜擢され、小栗は最初の遣米使節としてアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込んだ。正使は新見豊前守で、小栗は監察の要職にあった。一行にはアメリカ海軍のジョンストン中尉が同行したが、小栗の敏才に注目、「一行中、最も才腕あり且つ実行的の人」と評価した。小栗は日本海軍の創設に情熱を注ぎ、ワシントン海軍工廠では船りょに注目。船の建造、修理の実態を見て、船の修理の必要性を痛感した。横須賀造船所建設に尽力したが、徳川慶喜の朝廷恭順に反対して下野、後に謀殺される。
この一行には護衛艦としてかん臨丸が太平洋を横断したが、この中に若き勝海舟が同乗していた。わずか300トン。
【参考文献・資料】
1.US Navy Photograph (Washington Navy Yard) 1860.5.14
2.江戸東京博物館NEWS Vol.27 1999.9.27
3.維新の青春群像/小西四郎編 文春文庫 1986.4.25
4.万延元年のフットボール/大江健三郎 講談社 1988.4.10
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