JISの女性点描

ーデジタル キャピタルに住む日本の女性ー

現在メリーランドとバージニアの一部を含めた、ワシントン地区に住んでいる日本人は1万2千人前後。(1997年度日本大使館領事部調査に依る)いまでこそ SUSHI がスーパーで売られ、簡単に日本食品が手に入るようになりましたが、1970年代までは日本人そのものが珍しかった時代でもありました。そんな中で、日本人の美点を発揮しつつ米国社会に溶け込み、社会の変化を悠然と受け止めつつ敢然と地歩を築いてきた日本人女性がいます。何の気負いもなく確実に日米のかけ橋となっている、そんな女性を毎号紹介していきたいと思います。

「小さな体に大きな魂」

‐リンカーン恵さん‐

リンカーン恵さんは現在が盛りの五十代。三人の子供たちも長男はコンピューター・ソフトウエアーのエンジニアとして巣立ち、長女は大学二年生、そして次男は高校一年生。 徐々に親の手から離れつつある。米国に居を定めてからの三十年間、知らず知らずの内に種を撒き、水を与えてきたものが芽を出してきた。 
恵さんは現在ロックビルの図書館で、司書として週20時間の仕事をする傍ら、日本版「ナショナル・ジョーグラフィック」や「ナショナル・ジョーグラフィック・ワールド」の監訳という責任ある仕事をしている。監訳とは英語の日本語訳が英語の正確な意味を伝えているかどうかチェックする仕事。英語と日本語が同じように完璧でなくては出来ない。この仕事をしてから、翻訳本を読む気がしなくなったと言う。あまりにも錯誤、誤訳が多いそうだ。
恵さんが初めて米国にきたのは、60年代の後半。AFS(America Field Service)の留学生として高校三年から卒業までの1年間を、ニュージャージー州のリッジ高校で過ごした。その頃の日本はオリンピックが終わり、経済も安定期に入ったとは言え、まだ海外渡航が自由化されていなく、1ドルが360円の時代。
ホームシックや、日本食が食べたくて夢にまで見るといった思いも、「外国に行ってみたい」という幼い時からの夢の実現の前には、耐え難いものではなかった。それ以上に新しい土地に住むこと、新しい文化に触れること、新しい友達を得ることに楽しさや嬉しさを見い出したそうだ。
コカコーラもピザも日本ではあまり見かけなかった時代。見るもの全てが珍しかったと言う。
この留学時代にかけがえのない伴侶と知り合うことになる。リッジ高校の同級生・エドワード リンカーン氏と結婚したのは、津田塾大学4年の1月。 その年の9月、ご主人の大学院入学に合わせて再び米国の地を踏んだ。新婚時代はご主人の大学院のあるコネチカット州で過ごす。図書館の仕事を始めたのはこの頃で、大学院生のご主人との生活を支えるためだった。勤め始めて、司書の資格の必要性を感じ大学院に入る。勤めながら夜大学院に通い、3年後修士過程を終了、司書の資格を取った。
恵さんは自然体の人。気負いもガンバリズムもなく、すごいことをやってのける。本人にその意識はない。ただ「やりたいことをやっただけ」なのだろう。
3人の子供の子育てと仕事。辞めたいと思ったことはないけれど、子供が病気になった時が一番辛かったと言う。
目下の楽しみは、好きなサッカーをプレーすること。試合の時は代休を取って参加するほど熱中している。
リンカーン恵さんは、その時々に最高の力を発揮しながら真摯に生きている。

「エネルギッシュに生きる」

‐千阪郁代さん‐

もう十年以上も前のこと。当時「ニューヨーク恋物語」というテレビドラマがあった。田村正和主演、舞台はニューヨーク。当たらないはずがない設定で、私も毎週日本から送られてくるビデオが待ち遠しかった記憶がある。風俗を知るにはその国のドラマを見るのが一番。主演の田村正和にからむ女性たちの中に、日本の大学を卒業後ニューヨークの証券会社に就職、バリバリ仕事をしている女性がいた。現実にも、日本企業でではなく外国、特に米国企業で働こうとする女性の進出が目立った頃だ。男女・老若の差別がなく、“実力主義”が彼女たちを国際社会へと導いたのだろう。
私が千阪郁代さんに初めて会ったのはちょうどそんな時。日本ではバブル経済華やかりし頃だった。千阪さんのトラベル・エージェントも忙しい盛り。会談中も電話やお客がひっきりなし。電話やお客の応対にーもちろん英語でーテキパキと処理していく千阪さんを、憧憬のまなざしで見ていた。ドラマの中での外国企業や外国で仕事をしている女性は、いかにもキャリアウーマン然として一分の隙もない風に見えるが、千阪さんの場合、普段は比較的ゆっくりと穏やかなテンポで話しているものの、いざ仕事の話しになると、ガラリと表情も会話のテンポも変わる。仕事関連の話しになると、とたんに目つきが違ってくる。仕事人の顔つきになる。長いキャリアの中で培われた職業意識なのだろう。 
千阪さんが現在の旅行エージェント<ジャパン・アソシエイツ・トラベル>を始めたのは1983年。それまで勤めていた日本大使館を辞めての再出発でした。
日本大使館に勤めていた15年間は、千阪さんにとって人生の大きな“うねり”の時期でした。仕事を続けながらメリーランド大学に入り直し、システム・マネージメントで学位を取得、アメリカ人の御主人との離婚、現在の御主人との再婚、二人の子の出産、友人と作る新しい会社の準備等々。淡々として語る千阪さんの様子には、過去の決断に対する後悔や拘泥はない。本人は「過去にこだわらない性格」と言うけれど、長い時間をかけて、十分に考えた末の決断だったのだろうと推測する。 
「帳尻をあわせることができる人」が稀にいる。どんなにマイナスが多くても、後から見てみるとプラスになっている、といったようなこと。千阪さんは正に帳尻をあわすことができる人で、それには人知れずの努力があってのことだろう。
千阪さんが初めてアメリカの土を踏んだのは、大学(カンザス州)留学の時。16才の時にヨーロッパを旅行し、開放的で自由な空気に横溢された世界を経験した。どうしてもアメリカへ行ってみたいと思った、と言う。 
結婚後にオハイオ州立大学で仕事を始めてから30年以上、状況・心境が変わっても仕事は続けた。千阪さんには、苦労や辛さをエネルギーに変えてステップアップするという、前向きな姿勢がある。ストレス解消の旨さも仕事を長く続けていける秘訣だろう。プライベートの時は、テニス、フラメンコ、日本舞踊、三味線等などその楽しみ方は幅広い。
千阪さんのライフスタイルは、「人生をいかにエンジョイするか。」 
もの事を積極的に考え、エネルギッシュに生きている人は、人生もまた楽しいに違いない。

「精神的にゆとりのある生活を」

‐優しさの中に見え隠れするバイタリティ‐                     ペレラ八重子さん

国際結婚を継続させていくこと、そして全うすることが、特に日本人にとって難しいのは、お互いの言葉、伝統、習慣等の違いに因ることは勿論だが、一番の原因は、どちらかの生国に住むことによって、相手方に一方的に「郷に従わせる」からではないだろうか。結婚に限らない。パートナーとして何かをやり遂げるには、一方的に有利・不利があっては旨く行かない。同じ土壌に立って物事を進めていくことが鉄則だろう。
ペレラ八重子さんは、国際結婚するに当たって約束し合ったことがあった。御主人の出身地・スリランカにも八重子さん自身の国・日本にも住まないこと。文字通り、零からのスタートを出発点にすることを選んだ。余談だが、ワシントン赴任で滞在している御夫婦が、お互いに気遣い思いやって、日本にいる時より仲が良いのは、御存知の通り。
外国暮らしで大切なことは、自分のアイデンティティを確立することだろう。根無し草にならないための「レゾンデートル」には、積極的に社会参加していくバイタリティが必要だ。
八重子さんが結婚したのは、ジョージタウン大学留学中。それまでは翻訳の仕事をしていたが、英文から和文への翻訳に飽き足らなくなり、和文から英文への翻訳を志したものの、どうせやるなら国際関係論を学ぼう、と考えていた。そんな時、博士号を取得するために留学していた御主人と出会った。八重子さんにとって、電撃的とも言える出会いだったのだろう。さもなければ、親の庇護の下の学生から、結婚生活の支柱への大転換の道を選びはしない。外見は強そうだが話してみると案外優しい人、反対に、外見は優しくて話し方も穏やかだが、笑みを浮かべながらかなり厳しい ことを言う人がいる。八重子さんは後者。それは取りも直さず、曖昧さを排した生き方の厳しさの所以だろう。
結婚生活をスタートするに当たって八重子さんがしたことは、学生を辞め仕事を探すことだった。幸いMIPRO(通産省の外郭団体)から声がかかった。勤める条件として、グリーンカードのサポートを提示したそうだ。夫婦共に外国人のままでは、生活の安定が計れない、という生活者としての自覚だろう。
その後法律事務所、世界銀行とキャリアアップを図っていったが、1986年、御主人のPh.D.取得と同時に国際司法裁判所への職を得て、オランダへ赴任。一家の大黒柱の役は放免になった。
オランダでの3年間は、真に優雅なものだった。ヨーロッパということもあっただろう。風景の一つ一つが絵画のような環境。週に一回はある正式なディナーパーティへの出席。返礼のパーティでのホステス役。子育ての合間のレース編み。専業主婦であることを謳歌した時代、といってもいい。
ワシントンへ戻り、八重子さんは再び世界銀行へ復職。3年間勤めた。長男がキンダーへ入学するのを機に、“いま何をすることが必要か”を考えたと言う。「やりたいと思っていたことは全部やり、思い残すことはない。子どもは自分の手で育てたい」八重子さんは迷うことなく仕事を辞め、子育てに専念する道を選んだ。
ペレラ八重子さんは、現在、ワシントン日本語学校の事務局で、事務局長として、管理運営委員会、派遣教員、教職員、生徒、保護者などの種々の問題に対処しながら、1958年以来のボランティアイズムに歯止めを掛け、“きちっとした組織”の再生に忙しい。そんな中でのインタビューだったが、剛にして柔、厳にして優の八重子さんに、女性には稀なある種の「達観」を感じた。
八重子さん自身、小学校からプロテスタント系の学校で教育を受け、精神奉仕の教えを受けた。加えて、家族で仏教に帰依している。宗教心‐人生哲学が身に付いているわけだ。
これからは、精神的に余裕のある生活を送っていきたいと言う。八重子さんは、ゆとりがなければ人に優しくなれない、ということを知っている。

「ボランティア活動四半世紀」

‐いきなり副会長でWTWCを活性化‐
煙石浄子さん

WTWC(ワシントン・東京・ウーマンズ・クラブ)を御存知でしょうか。ワシントンの数ある親睦団体の中でも歴史は古いが、紹介でしか入会する方法がないので、その存在を知る人は案外少ない。1951年に、大使館員や軍人として日本に駐在していたアメリカ人の夫人が、日本滞在中にお世話になったお返しに、日本からワシントンに赴任してきた日本人の女性の生活がスムースに送れるようにお世話しよう、と作ったクラブだそうだ。会員はアメリカ人125人、日本人125人と同人数が原則。日本人会員は、駐米日本大使夫人を名誉会長に戴き、大使館関係者、商工会、半永住の夫人たちなど多岐に亘っている。
煙石浄子さんがWTWCに関わったのは3年前。二人の子どもたちもそれぞれが大学へと進み、ワシントンへ転居した時のこと。それまで子どもたちの教育や学校関係で積極的にボランティア活動をし、数年毎に転居してきた国々では、学校でのボランティアを通して、日本人社会の夫人たちの相談にものってきた。
知り合いもなく、楽しめる場所もないと感じたワシントンで、浄子さんは段々落ち込んでいったそうだ。長い間社会で活動・活躍していた人にとって、それを止めることなんてできはしない。しんどくて止めたいと思っても、いつの間にか次のことに向って走っているものだ。一時の落ち込みから徐々に回復していった頃、知人に紹介されたのがWTWC。入会した翌年には、副会長としてWTWCの運営に携わるようになる。浄子さんは生き返った。
煙石浄子さんと話していて驚いたのは、今まで仕事をしたことがないということ。車から降りて背筋を伸ばしてサッサッと歩いている姿は、どう見てもイグゼクティブ。話し方は要領が良く明瞭。仕事をバリバリやる、活躍中のキャリアウーマンそのものだ。ボランティアと仕事との違いは、お金を得るかどうか。お金を得ることが、職業意識を磨いていくことになる。煙石さんはボランティでキャリアを磨いていった、稀な女性だ。
煙石さんが初めてアメリカを体験したのは、大学院留学のため渡米したミシガン州だった。中学生の頃から、英語を話せる英語教師になりたいと考えていて、"Teaching English as a 2nd Language"(「英語教育法」)でMAの資格を取得した。本来なら、帰国して英語の教師になっているはずだが、同じ大学院に企業留学をしていた日系三世のブラジル人と出会い、帰国後すぐに結婚。英語教師の夢はあえなく潰えた。結婚後は、銀行勤務の御主人に従って数年毎に転任。ブラジリア、リオ、サンフランシスコ、ニューヨーク、ブラジリア、ベルギーそしてワシントンと各国、各都市に移り住んだ。新しい土地に移ってまずすることは、子どもの学校を決めること。アメリカでは良い学校は教育熱心な家庭の子息が多く、教育熱心な家庭は高額所得者が多い。高額所得者の住んでいる地域は不動産査定価格が高い、と実感もした。日本人は「良い学校」へ通わせるため、そういった地域に集中し、クラス20人中5人が日本人という学校もあったそうだ。ワシントンの前任地・ベルギーには5年間滞在した。子どもたちが中学・高校の時で、PTAや図書のボランティアを精一杯やった。学校と日本人家庭とのパイプ役のような存在になり、子どもたちが卒業しても、その役割は変わらなかったという。
子どもの教育から手が離れ、学校関係のボランティアは卒業。現在は大人社会のボランティアに忙しい。WTWCに関わったおかげで、人との輪が広がっていく。好きな料理を教えているのもその一つ。あっという間に25人の生徒が集まった。
煙石さんにとってボランティアは、大学院で学んだ「英語教育法」の実践の場であったのではないだろうか。何も英語を教えることでなくてもよい。教育法の骨子は、学ぶ意欲を起こさせ理解させることではないか。煙石さんの生き方は終始一貫していると言えよう。

「美しくゆとりのある生活」

‐50歳からの本当の人生‐                         ウイリアムズ春美さん

いま日本では、外国の大学への入学希望者が増えているそうだ。以前のように日本の大学受験に失敗して、どうしようもなく外国の大学へでも行こうかといったような理由ではなく、将来を考えてそれを勉強するために最適な環境の大学へ、という世界の大学を視野に置いての大学の選択ということ。若い人たちは、大人が「グローバル化」などと題目を唱えているうちに、とっくにグローバル化している。
春美さんは「心身の健康」を旨とするHealing Centerを主宰している。現在は精神的にゆとりも出来、各国を東奔西走しているが、Healing Centerを開くキッカケになったのは離婚問題に遭遇した時だった。子どもが独立して一人で生きていくには、健康でなければならない。医者に頼る前に自分で自分の健康状態を知る、自分の身体を知ることが大切だと考えた。フットワークの良さは春美さんの真骨頂。こうと思ったらすぐに行動に移す。"Alternative Medicine"(近代医学以外の医学)を学ぶためイギリスへ留学。アメリカへの帰途、タイ、中国を回り、太極拳を学んだ。"Alternative Medicine"とは、アロマセラピーや指圧のように自然の治癒力を活用して、「気」から治癒させていく治療法。薬の大量投与とその副作用が問題になっている現在、Alternative Medicineの効用が再認識されている。
ウイリアムズ春美さんが初めて渡米したのは、1967年。まだ終戦後の日本の立て直しを目的とした「アメリカ・フレンズ奉仕団」が活動していた頃のこと。大学生の頃からその奉仕団でボランティア活動をしていた春美さんは、アメリカインデアンの保留地でのボランティア募集に応募。スカラーシップを取得しての渡米だった。
厳格な教育者の家庭に育ち、女性の職業としては教師しか選択肢がなかった地方であり時代でもあり、そんな生活から逃れたかったと言う。アメリカでの体験は、世界観を一変させるほど強烈なものだった。日本では劣等感を持たらしていたものがアメリカでは何ということもない、という価値観の違いに遭遇し、改めて自分を見つめ直そうと思ったそうだ。折角の自分発見の機会。6週間のボランティアだけで終わらせることはない。アメリカ全土を旅行し、その後イギリスへ渡り、1年間滞在。帰国途中にはインドを中心に色々な国を見て回り、結局日本へ帰ったのは渡米してから2年が経っていた。
帰国してからは東京に住み、仕事の傍インドの旅行記を書きため、「母なるインド」を上梓。インデアンのような滅び行く民族に関することを書く作家になるつもりだったそうだ。ところが、そこへイギリス人のボーイフレンドからプロポーズ。
春美さんには母親を反面教師とした、理想の女性の生き方があった。曰く「プロフェッショナルでないこと」「怒鳴らないこと」「男性に従順なこと」 作家になることよりも結婚を選んだ春美さんは、「本当の女」になるべくこの三つを守ろうとした。新婚当初のアメリカ生活、その後のインドネシア、マレーシアの3年間を挟み、再びアメリカでの生活。御主人を幸せにし、円満な家庭生活を作り、子育てに専念する。Artistic な生活を心掛けていた。そんな生活が10年も続いただろうか。御主人の母親の死をキッカケに、御主人の態度が変わっていき、その10年後には御主人の口から他の女性との二重生活を聞かされるハメになる。その事実より、Artistic Life という共通のライフスタイルを持っていると信じていた夫の背信行為に、大きなショックを受けた。
春美さんの人生のテーマは平穏。一人一人の平和から世界全体の平和へと向かう手助けをしたい、人類の平和に関係することをやって行きたいと言う。
春美さんは、仕事にレジャーに学習にと各国を飛び回っているが、Artistic なライフスタイルの中で、心的にゆとりのある毎日を送っている。

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